長崎に落ちた原子爆弾は本当に非人道的兵器だったのか?
毎年当たり前のようにやってくる原子爆弾投下の日
1945年8月6日には広島に「リトルボーイ」
1945年8月9日には長崎に「ファットマン」という原子爆弾が投下されている
2019年現在に至っては、原爆投下から74年という月日が経つ
あまり興味がないかもしれないが、私は長崎県生まれの長崎県育ち、平和学習は子供のころから受けさせられ続けてきた
しかし其の甲斐むなしく、ほとんど内容を覚えていないのでここで改めて原子爆弾とはいったいどういうもので、長崎県にどんな被害をもたらしたのか広島とも比較を交えながら見ていくことにする!
結論から言うと、原子爆弾は「非人道的兵器」である(/・ω・)/
※なお、今回の記事はそのほとんどがWikipediaからの引用なので、ヒマなのであればWikipediaを見に行くことをオススメしましょう。よくまとめられとる!
ファットマンとは、第二次世界大戦末期の1945年8月9日午前11時02分、アメリカ軍が長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である
ちなみに人類史上実戦で初めて使用された核兵器は1945年8月6日広島に投下された「リトルボーイ」である
人類史の中で実戦で使用された核兵器はこの2つのみであり、日本は世界唯一の被爆国なのである
長崎に落とされた核爆弾「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000トン、広島に投下された原爆の1.5倍相当の威力があった
そしてその結果、当時の長崎市の推定人口24万人のうち、約7万4千人が死亡した
広島への核攻撃の場合、当時の広島市の推定人口35万人のうち、9万~16万6千人が死亡したとされている
広島よりも威力の高い核兵器が長崎に落とされたにも関わらず、死亡者数で長崎の方が被害軽微な理由は長崎市が山の多い起伏にとんだ地形だったからに他ならない
結果的に山だらけの地形は原爆の被害を抑える役割を果たしてくれた
※長崎市の投下された原爆のキノコ雲
では、なぜ日本は原子爆弾を2つも投下されるはめになってしまったのか?
その答えは第二次世界大戦にある
第二次世界大戦は1939年~1945年までの6年間、ドイツ・日本・イタリアを中心とする枢軸国対、イギリス・ソ連・オランダ・フランス・アメリカ・中国など連合国間で戦われた全世界規模の戦争
当初開戦時はヨーロッパを主戦場としていたが、1941年12月、日本とイギリス・アメリカ・オランダ間で太平洋戦争開戦と共に戦火は全世界へと拡大していく
第二次世界大戦のきっかけから終戦まで
ドイツは第一次世界大戦に敗北し、領土がない
そこにアメリカから端を発した世界大恐慌が登場
アメリカ:ニューディール政策、イギリス、フランス:ブロック経済で自国の活性化をはかる(外国のものが入ってこないようにする)
これは、植民地や領土が豊富だからこそできる策で、当時領土のないドイツとイタリアはやばい
ドイツ:ヒトラー、イタリア:ムッソリーニがファシズムという考えに走る
ここでドイツが怒涛の快進撃をみせる
ドイツがポーランド侵略を開始と同時に、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告
しかし、このドイツはポーランドどころかフランスまで降伏させてしまう
イケイケのドイツはイギリスへの空爆を開始、イギリスは窮地に立たされる
ここで日本動きます!当時、日中戦争最中であった日本も長期化する戦争の打開策としてドイツ・イタリアと同盟を結ぶことにする(日独伊三国軍事同盟)
1939年からイケイケのドイツですが、1941年が第二次世界大戦の分岐点
これまで中立であったアメリカがイギリス等連合国側に武器の供給を開始
ドイツはイギリスを降伏できない状況に向きを反転、ソ連(ロシア)へ侵略を開始するも寒さにやられ苦戦しだす
※独ソ不可侵条約の一方的な無視
ドイツと同盟を結んだ日本は1941年12月ハワイの真珠湾を攻撃開始、アメリカと太平洋戦争へと突入※同盟国であるドイツ・イタリア共にアメリカへ宣戦
1942年日本はミッドウェー海戦で敗走、重要拠点サイパン・グアムを失い本土が爆撃機で空爆されるようになる
一方ドイツ・ソ連間の争いも、ドイツがスターリングラードの戦いに敗れ敗走
イタリアはアメリカ・イギリス連合軍に上陸され、ムッソリーニが失脚。1943年にイタリア無条件降伏
1944年6月連合軍は西からドイツ軍を粉砕、ノルマンディー上陸作戦によりドイツはパリを開放
とうとう1945年5月ドイツも無条件降伏を受け入れる
一方日本、まだがんばってます!降伏しません
日本は本土決戦の準備に入る。その準備の一つが根こそぎ動員である
これにより、本土決戦の防衛戦力として315万人が用意される
そしてこの本土決戦準備のために盛大な犠牲となったのが沖縄である
1945年4月連合軍は沖縄侵略を開始、これにより沖縄は凄惨な持久戦へと発展
1945年6月には沖縄の占領をほぼ完了する
1945年7月アメリカ・イギリス・中国の名のもとに、日本への降伏要求の最終宣言が出される(ポツダム宣言)
日本はソ連へ和平工作を行う※ソ連へ助けを求める
ポツダム宣言を無視した日本は戦争続行である
業を煮やしたアメリカは日本を降伏に持ち込むために、3つのカードが存在した
・原子爆弾の投下
・ソ連の日本への宣戦
・ダウンフォール作戦
である。
そして、そのカードは順々に切られていく
とうとう1945年8月6日、9日。日本に原子爆弾が投下される
※アメリカは事態の早期収拾のためとしている
しかし原子爆弾落とされた程度では止まらないのが戦時下の日本軍
日本敗戦を決定的にしたのが、8月9日末日のソ連宣戦加入である
ソ連へ和平工作を行っていた日本としては、ソ連に宣戦されたことこそが降伏の決め手となった
ちなみにダウンフォール作戦とは「日本本土上陸作戦」の連合軍側の呼び名
ダウンフォールとは「破滅・破壊」を意味し、枢軸国で唯一降伏しない日本に対して大量破壊兵器(核兵器)や毒ガスによる無差別攻撃など、文字通り日本を壊滅させる目的で命名されている
しかし、ソ連参戦と同時に日本が降伏したため作戦が実行に移されることはなかった
ちなみにダウンフォール作戦が仮に実行されていた場合、被害推定は100万人とも200万人やそれ以上とも言われているが、Ifの話をしてもしょうがないのかもしれない
はてさて、この第二次世界大戦開戦から終戦まで、日本に全く非がないかと言われれば決してそうではない
核兵器に関しては戦時中日本も開発に取り組んでいた。残念ながら原料が手に入らなかった~>_<
原料が手に入っていたのなら、核兵器を戦時中の日本軍が持っていたのなら、たぶん使ってたんじゃないかな?これもまたIfの話